ことだま日記

butda2.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:未分類( 304 )

外食を楽しむ

              お気に入りのイタリア料理
d0298869_08484297.jpg
 80歳を過ぎて外食を楽しむようになった。時々昼間に一人でラーメン食べに行くこともある。
 家内同伴の場合は夕食がほとんどです。和食の店、めん類の店など、行きつけの店は数軒、ほぼ決めている。
d0298869_09040747.jpg
 中でも最近(2年ほど前から)になって、志布志に一つしかない(確実ではないが)イタリア料理店がある。
d0298869_09051707.jpg
 私はニンニクのきいたパスタとサラダそれに焼酎ロック1杯。家内はピザを注文し、ほぼ半々に分けて食べている。
 食事の時間は40分ぐらい。量も丁度いい。今回は、店主に了解なしに写真を撮ってブログに書きました。

[PR]
by butda2 | 2017-06-18 09:00 | Trackback

龍谷大学同期会その3

d0298869_17225263.jpg
       龍谷大学同期会(29会=ふくのかい)広島別院に集う

 去る6月6日~7日に龍谷大学(昭和29年入学の同期)卒の同期会が広島別院に集合して開会した,午後1時半に集合して、先ず全員で物故者の追悼の読経をしました。 
誰もが承知の通り、1945年8月6日8時15分、広島の町は一発の原子爆弾により一瞬にして壊滅しました。広島別院の建物もすべて失なわれました。 
d0298869_17272738.jpg
 広島市民全てが甚大な被害を受け、町の復興は困難を極めましたが、市民の努力と安芸門徒の篤い信仰心により、見事に復興し、広島別院も立派に再建されました。
d0298869_17292375.jpg
 これまで一回も参拝したことはありませんでした。広島別院の戦後復興記録誌をいただき、改めてその業績に感銘を受けました。
d0298869_17302430.jpg
 お陰で、広島を舞台にした1泊2日の同期会は有意義に幕を閉じました。世話役の広島の同期の皆さん、ありがとうございました。再会を楽しみに!

[PR]
by butda2 | 2017-06-15 17:18 | Trackback

龍谷大学同期会(その2)

          龍谷大学同期の会(その2)宮古、呉の見学

 2年振りに開かれた広島市での同期の会は、出席者は回を重ねるごとに少なくなるけれども、それでも40人の出席者がありました。同期生は全国各地の僧侶がほとんどです。従ってこれまでの開催地も、大学の所在地の京都市ばかりでなく、札幌市、鹿児島市、滋賀県の長浜市など各地で開かれてきました。2年後の会場は中京地区ではないかと思います。
d0298869_09434191.jpg
 広島市のホテルに一泊して、2日目は全員で宮島神宮の参拝をして呉市に渡り、ホテルのレストランで呉市の名物「海軍カレー」を食しました。
d0298869_09450086.jpg
 日程の最後に、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)を見学しました。全長26、3メートもある10分の1の「戦艦大和」と人間魚雷「回天」などの説明を聞き、改めて戦争の無惨さを感じ入りました。
d0298869_09462130.jpg
 無事1泊2日の同期会を終え、学友達に再会を告げ、広島駅から17時37分発の新幹線で小倉経由で中津市にいる弟の家を訪問しました。私は同期会には家内を同伴しています。同伴の同期生も4~5組あります。2年後の同期会に果たして参加出来るか不安です。誰が最後まで残るのか?
d0298869_10062154.jpg

[PR]
by butda2 | 2017-06-14 09:38 | Trackback

龍谷大学同期会

          広島市にて龍谷大学同期「29(ふく)の会」
d0298869_15143922.jpg
 昭和29年入学の同期で組織する同窓生の会を命名して、「29(ふく)の会」と呼称して、60歳の還暦同窓会以来、ほとんど2年毎に1回の割合で同期会を各地を会場にして開催しています。今年は一昨年の京都会場に続き、今年は広島市で開催されました。 
d0298869_15192630.jpg
 6月6日(火)午後1時、広島別院に集合して、物故者の追悼式を行い、参加者全員の集合記念写真を撮りました。同期生は入学の時は約200人でした。参加者は年々少なくなり、今年の参加者は40人でした。今年は大学卒業後丁度60年目に当たりました。
d0298869_15222441.jpg
d0298869_15410779.jpg
 集合写真撮影の後、平和記念公園、原爆資料館を見学、供養塔に参って全員で読経しました。
d0298869_15234509.jpg
 夜は懇親会に先立ち、大学5年先輩の被爆体験者 登世岡 浩治(とよおか こうじ)さんの被爆体験を拝聴しました。広島の原爆の被害については、ある程度学習していましたが、直接被爆体験者による体験談は初めてでした。

[PR]
by butda2 | 2017-06-12 15:11 | Trackback

ブディストサロン

          喫茶店で仏教講演会(ブディストサロン)

昨年の10月から、鹿屋市の喫茶店・マドリッドカフェで始めた仏教を学ぶ「ブディストサロン」。今回が11回目でありました。
d0298869_05012231.jpg
 これまでは専念寺の住職と前住職が講師を勤めましたが、今回は、前半は在家出身の専念寺法務員、立山さおりさんが「出家を志した動機」について話し、後半は前住職が法話をしました。
d0298869_05030456.jpg
 今回の参加者は6人でしたが、立山さんの出家の動機を聞いて、みんなで悲しみや憎しみを転じて、悦びに変えていくことの大切さを学びました。
d0298869_05094280.jpg
 後半で前住職が「憂きつらき 悲しむことのなかりせば ひかりも知らで闇に入りしか」の法語をもとに、憂(う)き辛(つら)きことことが縁となって、自分の人生を深めてくれる。そこに目覚めるのが仏教聴聞の意義があり、そこに気付かない人は闇に迷うことになる話を聞いて終わりました。
d0298869_05103986.jpg
 熱心に聞き、熱心に話し合っていただきました。次回6月は12日(毎月第2月曜日)午後6時30分からです。
 講師は専念寺住職の予定です。 問合せ・マドリッドカフェ=鹿屋市寿7-5-13 電話=090-4776-9783(小山)まで。

[PR]
by butda2 | 2017-05-09 04:54 | Trackback

境内の山野草

              春を彩る境内の山野草
 山寺の境内の片隅みに露地植している山野草が今きれいな花を咲かせています。
d0298869_09421567.jpg
d0298869_09471483.jpg
            露地植えのえびね草 
d0298869_09434030.jpg
                     土手に咲くシライトソウ
d0298869_09351456.jpg
            露地に咲くテンナンショウ
d0298869_09453626.jpg
            葉っぱの綺麗なギボウシ

[PR]
by butda2 | 2017-04-30 06:20 | Trackback

紙芝居「嫁おどしの面」

            「嫁おどしの面」(肉づきの面)
 (当寺の法務員が、紙芝居風に物語を絵に描きましたので、物語を紹介します。) 

蓮如上人ご一代記の物語の中に「嫁おどしの面」(「肉づきの面」)という場面があります。昔のお説教ではよく話されたもので、今でも北陸地方では報恩講でよく話されるそうです。
d0298869_15503864.jpg
 福井県の山奥、十勝村に与三治と妻のお清、それに姑(しゅうとめ)の三人が住んでいました。子ども二人を病気で亡くしたのが縁で、お清は毎晩、吉崎の抄慶寺(しょうけいじ)へ詣り、蓮如上人の教化を受けていました。ところが、姑は吉崎へ詣る嫁のお清が気に入らず憎んでいました。ついに、ある晩、お寺詣りをやめさせようとたくらみ、鬼の面をかぶり、鎌を持って待ち伏せして脅しました。しかし、お清は「食(は)めば食め、喰(く)らわば喰らへ、金剛の、他力の信は、よもや食むまじ」と口ずさみ、「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえがら通り過ぎようとしました。そのため姑は、思いあまってお清を鎌で切りつけて殺してしまい、沼へ突き落として、急いで家に戻りました。家に帰りついた姑は、すぐに鬼の面をはずそうとしましたが、なかなか面が顔から離れず、力を入れて取ろうとすればするほど、かえって面がくい入っるばかりでした。人の気配で姑は慌てて押し入れに隠れ、そこへ息子の与三治が帰って来ました。
d0298869_15520970.jpg
 夜も遅く、まだ寺から帰らぬ妻を気遣い、様子がおかしいと思っているうちに、村人たちがお清の死骸を運んで来ました。与三治はびっくりしましたが、お清は気絶しただけで命に影響はありませんでした。しかし、お清がいつも胸に入れて大切にしていた「南無阿弥陀仏」のの名号が斜めに切られていました。そうした様子をひそかに見ていた姑は、ついにたまらず押し入れから出て、涙を流して自分の罪を悔いました。
 嫁のお清は、鬼面(きめん)の姑を優しく許し、蓮如上人のもとを二人で訪ね、姑の口からお念仏が出るやいなや、鬼の面がぽとりと落ち、以来、姑は嫁のお清に劣らぬ信仰者となっていきました。 場面の絵は2つですが、この絵を通して物語の真意を味わいたいものです。

[PR]
by butda2 | 2017-04-25 17:06 | Trackback

ブディスト川柳

              私の川柳「ブディスト川柳」

 はじめにー傘寿を過ぎた山寺の和尚が「ユーモアは最高の文化なり」と信じて数年前から川柳作りを始め老後を楽しんでいます。親愛なる周りの人たちに笑いを届けたいと思い、拙い川柳を綴り贈呈することにいたしました。どうぞ御笑覧ください。
 平成29年4月  専 念 寺  愚凡法明(ぐぼん ほうめい)
d0298869_21100031.jpg
*ちなみに、ブディストとは仏教徒の意で、仏教的な川柳を綴りました。約90首、筆ペンで自筆して印刷所に製本を発注して製本しました。次に川柳数首を掲載いたします。
d0298869_21131817.jpg
・いいはずだ あの世還りは まだいない
・陰口を 叩いた口で お念仏
・あの笑顔 黄泉(よみ)の国まで 持っていく
・三回忌 夫(つま)を亡くして 若返る
・もういいと 言いつつ五年 生きている
・当たり前 病んではじめて お陰様
・閻魔(えんま)さん 私の死後を どう裁く
・殺すなと 言っていながらハエ殺す
・たくさんの 肩書き置いて 彼は逝(い)く
・ポックリと 願ってみても 無駄ですよ
・婆さんが 聞いてないのに 歳(とし)名乗る
・親切と 言いつつ世話やく 不親切
・飲み会の 話題はいつしか 老病死  
・初詣(はつもうで) かねての議論は 無神論(むしんろん) 
・おまかせと 微笑んで言う 病む老爺(ろうや)  
・生きている だけで迷惑 かけてます  
・住職も 時々拝む 山の神  
・また聞いた 「あなただけよ」と 言う嘘を

[PR]
by butda2 | 2017-04-23 21:05 | Trackback

親鸞聖人の生涯と物語 2

            親鸞聖人と板敷山の物語(紙芝居) 2 親鸞聖人の法然上人との離別、越後への流罪などを経て、やがて関東に赴かれました。関東での布教は常陸の国にある稲田の草庵を中心にして各地に出掛けて念仏の教えを広めました。この地方は昔から修行によって呪術を学び、加持祈祷をする修験道がさかんでした。修験道は祈りや呪いによって病気や災難を除き欲望を満たそうとする教えですから聖人の説く念仏の教えとは相容れない教えです。
d0298869_11300496.jpg
 聖人の熱心な布教によって、稲田の草庵には阿弥陀如来の救いの本願を求めて多くの人々が集まり、弁円(べんねん)の教える加持祈祷をたのむ人が減り、山伏たちは苦々しく思うようになりました。
d0298869_11310499.jpg
 聖人49歳の秋のこと、山伏弁円は聖人をこらしめようと、板敷山で待ち伏せしましたが、すれ違いばかりで出会えず、ついに聖人の居る稲田の草庵まで乗り込んで来ました。そして大声で「親鸞おるか出てこい」と怒鳴り込みました。
d0298869_11340863.jpg
 このただ事ならぬ声を聞いた聖人は、何の気構える様子もなく、静かな態度で対応されました。この聖人の和顔に接した弁円は、今の今まで持っていた聖人への敵意がいっぺんに消えてしまい、とたんに聖人のおん前にひれ伏してしまい、聖人こそ生身の仏様であるとあがめ、刀剣を捨て、これまでを悔やんで聖人の弟子になって、念仏の教えに帰依することになりました。
d0298869_11361997.jpg
 弁円は聖人より明法(みょうほう)という法名を授かり、聖人の膝元で聞法に励みました。絵の場面は、かつては聖人の殺害を企てた板敷山に、聖人の帰りを待つ明法房弁円で「山も山 道も昔に変わらねど 変わりはてたる我が心かな」と歌った弁円の姿です。
[PR]
by butda2 | 2017-04-21 13:10 | Trackback

親鸞聖人の生涯と物語  1

            親鸞聖人の生涯と物語(紙芝居)1

 大正8年に編纂された「親鸞聖人御絵傳」を参考にして、親鸞聖人の生涯について絵を描くのが得意な法務員に、紙芝居風に絵を描いてもらい、寺の法座で活用することにしました。
d0298869_12324029.jpg
 親鸞聖人は、平安時代も終わりに近い承安3年(1173)の春、京都の里で誕生された。父は藤原の流れをくむ曰野有範(ひのありのり)、母は源氏の子孫、吉光女(きっこうひめ)で、幼名を松若麿(まつわかまろ)といいました。父は聖人4歳のとき、母は8歳のときに病で亡くなられ、叔父の範綱に養育され、間もなく出家を志し、粟田口の青蓮院 慈鎮和尚(じちんおしょう)のもとを訪ね、出家し、名を範宴(はんねん)と名ずけました。得度(とくど)が夜遅くなったので明日に延ばそうとしたとき聖人が歌ったのが「明日ありと思うこころのあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」の歌です。
d0298869_12343518.jpg
  得度の後、聖人9歳のとき、比叡の山に登り、主に横川(よかわ)堂僧として20年間「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励みました。しかし、「いずれの行も及び難く」自力の修行では仏道をきわめることができませんでした。i
d0298869_12421148.jpg
 建仁元年(1201)、聖人29歳のとき、比叡山では悟りに至る道を見出すことができず、山を下りて京都の六角堂に参籠され、救世観音の教示を仰ぎ、95日目の暁に東山の吉水で本願念仏の教えを説く法然上人のあるという夢告を受けた。
d0298869_12443151.jpg
 やがて聖人は吉水の法然上人のもとに約100日間通い続け、阿弥陀如来の救いの本願、念仏往生の誓願の心に信順し、ついに「たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思いを定め、断ち切っていく道ではなかった、救われていく道であったと弥陀の本願を信じ、念仏を喜ぶ身となりました。

[PR]
by butda2 | 2017-04-19 11:52 | Trackback